昭和44年10月1日 朝の御理解
第43節「死んだからと言うて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いをせよ」
「死に際にもお願いをせよ」と、生き死にを通してこの神様のおかげを頂かなければならない、本当にこれは金光様の御信心を頂いて、え~、まあ(?)、まあ言うならここを目指して信心をすると言うても良いでしょうねお互い、死に際にも願えれれる信心、ね、「もう死んだらそれまでだ」「死んだらもうそれまでだ」というのではなくて、「死んだからと言うて神のおかげを受けずにはおられまいが」と、いうところをね私共が分からしてもらう、死んだことも、う~ん、ない者を、私共では、死んだ先の事が、死後の生活といったようなものはどんなものか分からない、本当にあちらでもやはり神様のおかげを頂かなければ、あ~生きられないものか、あちらでの生活というものは出来ないものか、生きとる間は金光様、死んだら仏様のお世話にならなければならんのではなかろうかと、まあ色々に思うだけであって実際はそこんところが分かる者は誰もおりません、想像です、ね、そういう例えば、あぁ難しい中にあって、その死に際にも願えれるということは、どういうことかと言うとね、え~、御神訓の中に、「神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ。」と「頼む心にへだてなく祈れ」と、頼む心というところを信頼心と書いておられますね、頼む心を信頼心、ね、「神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ。」と、ね、頼む心にへだてなく祈れと、信頼心と、ですからここで43節で、この願えとあるのは私はこの信頼心のことだと思うね、頼むでも願うでも同じ意味だと思います、ね、だから願えということは、いわゆるその、なるほど死んだからと言うて神のお世話にならんわけにはいかんことを信頼て言う、それを信じておる、信じておる者でなからなければ、願えない感じがするですね、またここでいう願えと言うのは、願いの中にはお礼を申せと、いうことも言えますよね、ですからここんところは願うということは信頼心と願うということとが、あぁ一緒にこの意味の中にはあると思うですね、ね、そこで私共はこう実際に分からんのですからね、死に際にも願うといっ、願うとこう、それはただ病人なんかがありますとね、もう死に息を引き取るまで、もうとにかく助かるように、「どうぞ助けて下さい」と言うて、やはりあの、お~、苦しみの者もそれを願います、そしてそこに奇跡的な助かりを心に願いながら、息引き取るまで願う、ね、だからそういう願いじゃないと思うんですよ、ね、死んだからと言うて神のお世話にならんわけにはいかんのだから、ね、いつお国替えのおかげを頂くやら、いつ息が引き取らせて頂くやら分からん、そういう中にあっても、うんならまああちらと言うかね、あの世と言うか、に、誕生すると、のですから、あちらで、でのことを願うていかなければならん、ね、本当にこの教祖様のおっしゃっておられることを、信じておらなければ、信じきらなければこの頼む心というものも生まれてこない、願う心、願えとおっしゃる願いは出来ん、ここでは死に際に「助けて下さい」と言うていうまあそれではないと思うですね、そこで私は思うんですけれども、え~、「死んだからと言うて」というのはもう大変な難しい、いわゆるまあ難しく言うと、死生観と言うですかね、金光教の信心によって頂けれる死生観というものは、「生きても死んでも天と地はわが住家と思え」というのが、お道の信心のいわゆる死生観なんです、ね、生きても死んでも天と地はわが住家である、だからこそ死に際にも願わなければならんであり、その願うということの中には信頼心ということと、お礼を言うということ、ね、七十で死、まあ死のお国替えを頂くなら、七十年間の長い間の御礼というのが、心行くまで御礼がなされる、ね、そこでなら私共がその死に際にです、そういう意識がはっきりしておれば良いけれどもそんなわけにはいけません、もうろうとして何時自分自身が息を引き取ったやら分からんようにして、まあ引き取るようないわゆる安楽死のおかげをまあ頂きたいとこう思う、ね、それで私共がその意識のある間にここんところが出来ておらなければいけないとこう思うのです、そこでね今日私は「死んだからと言うて」というところをですね、「眠ったからと言うて」という風に頂いたらどうだろうか、「眠ったからと言うて神のおかげを受けずにはおられまいが」と、ね、「死に際にも」というところを、眠る、眠り、「眠る際にもお願いをせよ」ということに、ね。
教祖様にある方が「死ぬるということはどういうことでしょうか」と、言うてお伺いをした時にね、「自分も分からん」とおっしゃったそうですね、ええ、自分も分からんと本当なことは、分からんけれどもね、「まあ眠るようなものであろう」とこうおっしゃったそうです、ね、眠ったら誰何にも分からない、どんなに、ね、それこそお~貧富の差なんて言うものはない、眠っておる時だけは誰も、ね、悪人であろうが善人であろうが、お金を沢山持っておる人であろうが貧乏な人であろうが、眠っておる時は極楽である、何にも分からない、ね、と言うてなら眠っとる間はもう神様のお世話にならんで良かっちいうことじゃいかん、ね、ねむっ、眠ったからと言うて、もうなぁ~んにも分からん、前後不覚に寝ておると。
前後不覚に寝ておるからと言うて神様のおかげを頂かんで良いということはないことは、これははっきり分かっております、ね、眠っとる間は息をせんというわけにはいかんのですから、ね、けれども、死に際とか、死んでからということは分からない、けれども私共はそういう、日々ですね、そういう日々を繰り返えさして頂く内にです、段々信頼心が出けてくるのではなかろうかと思う、ね、ねむっ、眠ったからと言うておかげを頂かんわけにはいくまいが、ね、眠り際にもお願いをさせて頂くというような信心が、繰り返っ、もう理屈じゃないです、そういう信心が繰り返し出けておるところからです、私は、頼む心、信頼心、願う心、またはお礼を申し上げる心、といったようなものがです、出けてくるのじゃなかろうか、一日の事を、本当に「今日もおかげを頂きまして」と心行くまでお礼を申さしてもろうて、ね、「只今からしんにつかしてもらいます、眠らして頂きます、どうぞ眠っておる間もあなたのおかげを頂きまして、良い安眠のおかげを頂きますように、どうぞ明日、明日の朝は心良う目覚しのおかげを頂きますように」それを願い、お礼を言い、ね、それを信じて日々繰り返す生活、ね、ここんところが私は本当に段々段々出けて行くところからですね、金光様の御信心の、お~何て言うかね、その有り難さといったようなものが、段々身に付いてくるのである、と思います、ね、間違いますともう心配で眠られません、間違いますとお礼どころか、本当に「あ~今日も苦しかった苦しかった」で、休まなきゃなりません、ね、お礼どころか願いどころか、ただもう、ただ眠っておるというだけ、ね。
「神は遠きも近きも問わざるものぞ」と、「頼む心にへだてなく祈れ」と、ここんところを、え~、色々学問的に、または、あ~いわゆる理論的に、分からして頂くことは、あ~、案外見やすいのですけれども、本当にそうだなということを体験さして、分からしてもらうためにはやはり体験がものを言いますね、体験そのものが、ん~、いわゆるこの信頼心というものをいよいよ作っていきます、なるほど神様には昼夜も遠きもない、昼も夜もない、ね、こちらの頼む心、それによっておかげを受けられるんだと、いう体験をやはり積み上げて行かなければならん、それには私共が、ね、死に際というところを眠り際と、ね、休ませて頂く時に、ね、そのことを願わせて頂くような、信心が繰り返されていく内に、そこんところがはっきり頂けれるのじゃないかとこう思います、ね、ただ目を覚ましておる時だけ、ただ毎日の生活の中にだけ、「金光様」と念じておる、頼んでおるといったようなものではない、ね。
私は今朝方、ん~、何かお夢を頂いておったけどそこがはっきりしませんけれど、え~、この鐘がなると、この人が助かるんだけれど、ね、もうこの鐘が、あ~、ならないところを見るともうこの人は助からんのだと、いうようなことだったんです、で私はもう心からその、その人が助かるために、この鐘がそのなりさえすればこの人が助かるのだから、その夢ん中でですよ、一心に願っておるんです、ところがですね、その鐘がなり響いたんです、「はぁおかげで助かった」と思うて目が覚めたら、三時半の時計のベルがジャンジャンなっておるとこでした、ね、はぁおかげで助かった、まあ鐘とベルは、の違いはあるけれども、その時計がその、三時半を知らしておるそのベルが、私の寝ておるそれに鐘に聞こえたんですよね、でおかげで助かった、まあ今朝の御理解から頂かしてもろうてですね、眠り際、眠り際にもお願いがしてある、ね、そこに本日も助かられる、道が開けてきておる、有り難い目覚しのおかげを頂かして頂いておる。
昨夜の御祈念は、本当に期せずして、え~夕べの御祈念は皆、皆が「一月の、一月中の御礼を申し上げるために今日はお参りしました」と言うて、え~、お届けをされ、またそのことをお礼を言われる人達が、幾人もあった、親子、夫婦と言うように、丁度最後まで残っておられたのが、久富さん達夫婦、佐田さん達夫婦、良夫さん達が夫婦親子四人連れてきておる、ね、え~、月の一番最後の夜の御祈念には、一月のお礼をまあ心行くまで申さして頂きましょう、昔は、え~、夜祭と言うて、え~、もうこれは月次祭たんび、または、え~月の終わりに、その夜祭というのが、どこの教会でもありました、今そんなことがありませんけれども、とにかく確かにあの、いつもの御祈念とは違った雰囲気の中に御祈念をさしてもらう、それが皆その、お~、今日は月末、今月中のお礼を申し上げさしてもらうためにお参りさして頂きましょう、またお参りしようと思うたら、「そんなら私も連れて行って下さい」といったようなことで皆お参りしてきておる、お願い参りはある、するけれど、お礼参りはなかなかそんな出来ませんね、それでえ~夕べ、え~皆急いでから、急いで帰らきゃならんという人達じゃないですから、まああ~、それから一時間、一時間半ぐらい、信者控え室で、信心の山々話しをさして頂いたことでございますけれども、このお礼参りということにはもう神様の、まあ言うなら文句の付けようはありなさるまい、と言うてから話した、もう信心の共例ってなんてんっちゃぁ、今夜の場がいらんごとある、ただこの月もおかげを頂いて有り難いという事だけで良い、ね、お願い参りと言うとお願いのしよん悪かとか、ねなんかということになってくるけれども、お礼、お礼参りということであったら、神様は文句の言いようがありなさるまい、そういう意味で甘木あたりの信心は、素晴らしい、お礼が八分と言われるぐらい、ね、御礼を手暑うと言われておる、ね、というような話しをまあしたことですけれどもですね、もう本当に、え~御祈念に入らして頂いた丁度、まぁだ御祈念の時分には風が出ておりませんでしたからもうそれこそ、もうお湿りの、お~いわゆる雨だれの音を聞きながら、それが祈りの伴奏のように、もう心行くまで頭が上げられんほどしの、言わば御祈念であった、吉井さんとこの家内の由紀子さんが、脇殿から入らして頂く時にです、ね、もうここでもうそれこそ有り難い有り難い大祓いを奏上されておると錯覚するほどしに、雨の音が大祓いの声に聞こえたと、もう入ってきた途端に有り難うならせて頂いて、まだ勿論御祈念もなんも始まっていない、そういう中にあのお湿りの音を大祓いの音と聞こえ、聞いたとこう言うております、それはどういうところからそういうことになってくるかと言うと、私はお礼の心からだとこう思うです、わざわざ福岡からしかも親子四人の者が、いきっ、毎朝毎朝、お父さんが朝の御祈念に参ってくる、毎朝毎朝参ってくる、いわゆるお参りをしとるけんというのでなら、もうそげん参ることはいらん、明くる朝はもうまた朝の御祈念にお参りゃ、夜は月次祭でもあるから、明日お礼を申し上げよう、それで良いようなもんだけれど、一月のことを思うたら、ふっと心の中に、良夫さんの心の中に、お礼、「はぁ今日お礼参拝さして頂こう」と思うて、ね、「今日お礼、今から一月のお礼参拝さして頂くからね」っち言うたら「そんなら私も連れて参って下さい」とこう言う、「うんなら皆付いてこい」と言うて子供達も一緒に、お参りをして、一月の事を心行くまでお礼を申させて頂く、もう明日で遅すぎるのである、ね、そこに御広前へ着いた途端にです、もう御広前では大祓いの、があげられて、お礼の御祈念があっておるような錯覚を感じた、それはなんとお湿りの音であったというのである、ね、私もあのお湿りの音を聞かせて頂いて、丁度御祈念の伴奏のように、言わば調子に乗って、御祈念が出来た、ね、そういう私はお礼、お礼の心っというものがです、ね、心行くまで出来る、私日々でありたいと思うのです、ね、そこから私は限りなく、ね、なんとは無しに、いすとは無しに、信頼心が強うなってくると思うです、もうここは理屈じゃないですねですから、ね、そういう積み上げがなされて行く時にです、ね、いわゆるお道で言うところの「生きても死んでも天と地はわが住家と思え」という安心、ね、いわゆる大安心のおかげ、なるほど生きておる間のお礼が心行くまでなされて、「さあこれからとてもあなたのお世話にならんわけにはいけません、どうぞまたよろしくお願いたします」と、私は願いともお礼とも、ね、つかない、いわゆる頼む心、信頼心がそこから育ってくるのだという風に思います、ね、私共は死後の事はなんとはなしに漠然と分かります、色々とお知らせを頂いたりいたしますと、本当にその時には本当はぁそうかな、とこう思いますけれども、実際は教祖様でも本当なことは分かっておられんのですから、ね、霊様との交流というようなことを、を頂きましてもです、けども本当のことは分からん、ね、けれどもやはり死に際にも願えれる信心を頂きたい、その死に際にも願えれる信心、あの世でもあなたのおかげを受けなければ立ち行かんのだということをです、この世で「あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだ」と、「ここ一寸動くことすらが、あなたのお許しを頂かなければ頂けんのだ」ということがです、まず十分に分かってからでなからなければ、ここんところは分からんのだとこう思う、そこで今日私は、死に際にもというところを、眠り際にもとこういう風に申しました、ね、心行くまでお礼をもうさして頂きながら、金光様金光様を、祈り唱えさして頂きながら眠りに付かせて頂く、そういう日々、そこには言わば眠りの中にも神様のお働きを受けておるということを実感さして頂く、なるほど眠っておるからと言うて神様のお世話にならんというわけにはいかんのだなと実感さしてもらう、ね、そういうことがです、私は死に際にもお願いをさしてもらえれるような信心が、ね、はっきり私も申し上げられませんけれども、出来るんだという風に思います、そしていかにもなら、私には、天も、てんめんも、も地にも、ね、私の住まい、住まい住まいがあるからと、天と地は私共の住まいだからと、信じておるようであっても、いよいよ息を引き取る時になってみなければ分からない、ね、ね、分からないけれども、うんならその時になって、え~、死に際にもお願いが出来るという、ことは出来ない、やはり日々の精進がです、積み重なれて初めて死に際にもお礼が言えれるおかげが受けられるのじゃないかという風にまあ思うのでございます、ね。
日々の幸せを、私は、ね、眠り際に感じさして頂くようなおかげを頂きたいと思うですね。
どうぞ。
入力者:誠輝